介護ブログ

母編17《皮膚転移の急速進行。》

鎮痛剤の影響と病状進行で、会話が成り立たなくなって行く母。

日に日に食事も摂れなくなり、鎮痛剤を飲むためだけに辛うじて、

何か胃に入れる状態になっていた。

右鼠蹊(そけい)部に生じた、癌の皮膚転移。

表皮に現れた癌細胞は腐臭を放ち、皮膚を抉(えぐ)りながら

急速な侵食を広げ続け。

鎮痛剤も気休めにしかならず、母は四六時中、

絶え間無い激痛と出血に苛まれていた。

 

癌研究会病院を退院し帰宅した翌日、訪問看護を初めて受けた。

訪れたのは男性医師と、女性看護師さん2名。

看護師さんの1名はかなり若く、やり取りからも新米の方だと感じられた。

患部に当てていたガーゼを外した瞬間、強まった腐臭に、

眉をひそめた新米看護師さん。

露わにされた癌傷と皮膚侵食の凄まじい様相に、硬直したらしい彼女へ、

ベテラン看護師さんが冷静に指示を出し、動かしていた。

 

すごいモノ見て、ショックだよね。ゴメンね、新米看護師さん。

すっごく痛いよね、暴れたくもなるよね。ゴメンね、お母さん。

 

そう思いつつ、癌傷洗浄の際の激痛に呻く母の手を握り、

暴れない様に抑え宥(なだ)めながら、泣きたくなるのを全力で堪えた。

在宅介護する間、癌傷の洗浄と手当てを、訪問看護で定期的にしてもらう事に。

処置が終わり見送りに出た際、ベテラン看護師さんに声を掛けられた。

 

「よく頑張っていらっしゃいます。お母様も、あなたも。

 時には感情を、解放することも大切ですよ。

 休める時には少しでも、休む様にして下さいね。」

 

母の処置中には堪えていられたモノが、耐えきれずに溢れ出た。

言葉に詰まり、うつむいて涙を落としている間、

手を包み込む様にして握りながら、落ち着くまで待っていてくれた。

訪問看護のお世話になったのは、ほんの数回だったけれど。

処置終了後、母から離れた場所で話し掛けては、

感情を出させてくれたベテラン看護師さんにも、当時はかなり救われた。

 

 

母のケアは、私と父で行なっていた。

右鼠蹊部から右脚付け根に広がる癌傷のせいで、身体を横たえる事も出来ず。

起こしたリクライニングベッドにもたれ掛かった姿勢で1日を過ごし、

鎮痛剤でウトウトする時以外は、痛みに呻き続ける毎日。

夜は父と交代で側に付き、丸太の様に腫れ上がり高熱を放つ右脚を冷やしながら、

どうか少しでも鎮痛剤が効いてくれます様にと、祈る事しか出来ない。

 

同居家族の母方祖母(心臓疾患持ち)と母方叔母(精神不安定)には、

母の強い希望で事実を伏せていた。

容態はどうかと、質問される度に誤魔化していたけれど、それも限界になり。

「頼むから。こちらから話すまで、母の事を質問しないで。」

母方祖母と母方叔母へそう告げ、一切の質問を遮断して、

母を寝かせていた両親の部屋にも、立ち入らせずにいた。

 

 

在宅介護を始めて10日後、ホスピスから連絡が入った。

 

「お部屋の用意が出来ましたので。

 急な話になりますが、明後日から入院なさいませんか?」

 

まさに、天の助けだった。

退院後たった10日間の在宅介護で、睡眠もロクに取れず、

心身共に疲弊しきっていた。

緊急引き継ぎした問題山積みな家業の諸々を抱えつつ、

急速に癌進行して行く母を介護するのは、想像以上の辛さだった。

絶え間ない激痛と出血、癌傷からの凄まじい腐臭に苛まれていた本人が、

恐怖と不安で子供返りし、「暴君」化していたとあっては、尚の事。

 

即座に、ホスピス入院のお願いをした。

癌研究会病院の退院日に渡された鎮痛剤は、もはや効かなくなっていた。

ヒステリックになり、意思疎通が出来なくなりつつあった母。

元より我慢強い人ではあったが、本当によく耐えていたと思う。

訪問看護で手当てして頂く際、皮膚を抉り続ける癌傷を目にする度に。

母にしかわからない辛苦と、急速に近付く「死」を思い、

叫び出したくなる思いに何度と無く駆られた。

もし自分が、あの時の母と同じ症状になったとしたら。

きっと、正気を保てない。

 

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