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母編19《余命見込み、向き合うしかない現実。》

子宮頸癌から始まり、10年ほどの癌治療と闘病を経て末期を迎え、

リンパ節転移と皮膚転移の急速進行を起していた、母の余命見込みは。

長く保っても、年内いっぱい。

東日本大震災から3ヶ月後の、2011年6月。

半年生きられるかどうかも危ういと、ホスピス主治医に診断された。

 

「まだ助かると、思ってた」

主治医面談後ポツリと呟いた父に、苦笑いを禁じ得なかった。

大切な人を喪わなければならない辛さは、私も同じ。

当時、母は63歳、私は37歳。

こんなにも早く、母親と別れる時が来ようとは。

けれど辛かろうが哀しかろうが、現実と向き合わなければならない。

母の激痛緩和と皮膚転移ケアはホスピスにお願いし、

遺される者としての役目を果たさなければならない。

母が中心となっていた家業も、引き受けなければならない。

父はそうした現実を受け止めきれず、目を背けようとしていた。

 

 

ホスピスが紹介してくれる葬儀社と、面談することにした。

主治医曰く、葬儀準備の話を患者家族へ持ち出すと

「まだ生きているのに縁起でもない!」

と怒る方も少なくないそうだが、私にしてみれば大助かりだった。

母を送る時は、父を喪主として立てるけれど。

実際の采配は、私が行なう事になるだろうと、予測出来ていた。

いずれ必ず「その日」が来るのだから、前準備しておいた方が、後々困らない。

 

面談した葬儀社の担当者は、温厚な雰囲気のおじ様。

営業マンである事を差し引いても、信頼できそうな人柄に、

母の「お見送り」をお願いすることにした。

後になり、その方のお嬢さんが私の母校の後輩にあたること、

在学時、学園祭の演劇サークル公演で舞台に立った姿を、

見られていたことが発覚。 なんたる偶然 (m’□’m)

 

ホスピスが処方する鎮痛剤は、在宅ケア用の鎮痛剤よりも遥かに強力。

激痛が幾らか緩和され、一時的に食欲を取り戻し、眠れるようにもなった母。

父はこまめに見舞いへ行き、母の好物を差し入れては、

「今日は、スイカを食べてくれた。」

「今日は、ゼリーを半分こして食べた。」

など、嬉しそうにしていた。

 

主治医の進言もあり、真実を伏せていた祖母(母の実母)と叔母(母の実妹)へ、

母の現状と余命見込みをありのまま告げた。

祖母は、母の好物である じゃが芋煮を作っては、面会へ行く父や私に持たせ。

叔母は静かに、現実を受け止めようとしていた。

母が過ごした最後の夏は、やけに長く感じられた。

 

 

頭は、動く。

取引先との家業相談も、葬儀社との打ち合せも、

主治医面談で知らされる母の癌進行も、

かつてないほど冷静に受け止め対応できた。だけど。

心が、付いていかない。

ふとした折りに、涙がこぼれて止まらなくなる。

自分と同じ年頃の女性が、その母親と楽しげに談笑している姿を目にすると、

胸苦しい程の羨ましさがこみ上げ、泣き叫びたい衝動に駆られる。

この時期が一番、心の支えを必要としていたのだが。

頼れる場所も泣きつける場所も、身近にはなかった。

 

母の状態や家の事情を知らせてある親しい人は、何人かいた。

一人で抱え込みすぎるなと、たまには愚痴でも何でもこぼした方がいいと、

心遣ってくれていたけれど。

あまりに重い現実は、そうそう話せるものではなかった。

親しい間柄だからこそ見せられない、心情や感情があり過ぎた。

肝臓が悪いのだからと、いくらたしなめても、面会帰りに酔って帰宅する父。

泣き暮らす様になった祖母。精神不安定な叔母。

本当は、家族である父や母方祖母・母方叔母に、支えて欲しかったのだけど。

彼らにそれを、望める状況ではなかった。

 

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