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母編27《縮まった余命見込み。》

2011年の夏は、酷暑でゲリラ豪雨が多かった記憶がある。

母を見舞う時は、夕方でもかなり暑く。

バス停からホスピスまでの徒歩10分程で、汗びっしょりになった。

 

 

食べ物も水も摂れなくなり、みるみる痩せ細っていった母。

ふくよかな人だったのに、見る影もなくなっていった。

どんなに触れても、どんなに話しかけても、全く反応しない。

激痛に泣き、呻いていた時期を思えば、穏やかな時間ではあったけれど。

母とはもう話せないんだな、と思うと、例えようの無い寂しさが胸を占めた。

 

意識は無くても、耳は聴こえている事が多い。

看護師さんにそう教わり、山歩きや川釣りが好きな母にと、

鳥の囀りやせせらぎ音のBGMを用意して、病室で流してもらった。

ホスピスの病室は、個室制。

少しでも心安らかに過ごせる様、取り計らってくれるのは、とても有り難かった。

 

「自分の脚で、立って歩きたい。」

 

意識がハッキリしていた頃、激痛と戦いながらもそう呟いていた母。

流していたBGMの野鳥の囀りやせせらぎは、その耳に届いていただろうか。

今となってはもう、わからないけれど。

 

 

何度目かの主治医面談で、余命見込みが縮まった。

右鼠径(そけい)部から大腿を侵食する癌傷の進行が早く、

いつ動脈へ到達し大出血を起こしても、おかしくない状態。

恐らく、冬まで保たない。

 

ホスピスの敷地内には、何本かの桜の大木がある。

面会に行く度、この桜が満開になったら見事だろうな、

お母さんとお花見出来たらいいなと、思う一方で。

恐らく母は桜を見られない、という予感もあった。

予感は的中し、更に。

右膝下の骨が癌に侵され、折れている事が、明らかになった。

 

終末期の癌患者に、被曝となる放射線検査は、通常行わないのだけど。

母の体位交換時に看護師さんが、グニャリと動いた右脚の異常に気付き。

急遽、検査をしたとの事。

レントゲン写真の中で、右膝下の骨が、何ヶ所も細かく折れ、砕けていた。

ヒビも、あちこちに入っていた。

目に見えない所で進行し続けるガンは、骨をも攻撃していた。

母が命を終える時の予測を、改めて説明された。

 

衰弱し続けて、心臓が弱り止まるか。

癌性創傷が大動脈へ食い込み大出血して、失血死するか。

 

あまりのショックを受けると、涙も出なくなるらしい。

自己防衛なのか、感情も固まった。

哀しいとも苦しいとも感じず、ダメで元々だと思いながら、

「安楽死は出来ませんか?」と、医師へ質問した。

当然の事ながら、回答は否(いな)。

心停止するか、失血死するか。

その時が訪れるまで、待つしかない。

 

病室へ戻り、深く眠りながらも時折呻き、苦し気に眉根を寄せている母の顔と。

丸太の様に腫れ上がり、赤黒く変色した右脚を見て、やっと涙が出た。

固まっていた感情が動き出し、声を押し殺して号泣した。

 

もういいよ、お母さん。

これ以上、苦しみながら生きなくてもいいよ。

やり場の無い怒りや哀しみと共に、そんな思いが渦巻いた。

 

病室内で流し続ける、野鳥の囀りが耳に届く様になった頃。

母の実父である亡き祖父に、初めて祈った。

 

どうか、お願いです。貴方の娘を、迎えに来て下さい。

父親である貴方が手を引いてくれれば、怖がらずに旅立てるだろうから。

動脈が破られて大出血を引き起こしてしまう前に、

癌によって身体が壊されきってしまう前に、

どうかどうか連れて行ってあげて下さい。

 

自分の母親の「旅立ち」を、あんなにも切に真剣に願う日が来ようとは。

本当に、夢にも思っていなかった。

 

 

余命見込みが縮められた翌日、母方祖母を面会へ連れて行った。

当時、90歳間近だった祖母。

10代の頃に母親を見送り、戦時中に兄を見送り、家を継いで生きてきた。

そして今度は、初めて産んだ子供を見送る事になる。

意識無く眠り続ける母の手を握り、髪を撫でて、祖母は語りかけた。

 

「光を目指して、行きなさいね。

大丈夫。怖くないからね。」

 

母親としての声と、母親としての眼差しで。

帰宅し自室に戻るまで、祖母が泣く事はなかった。

 

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