介護ブログ

母編28《最たる後悔、忘れ得ぬ誕生日。》

2011年の9月 朔日(ついたち)。

38歳の誕生日を、母の病室で過ごした。

独立し生家を離れてからの誕生日は、両親が祝い電話をくれたり、

ささやかな食事会をしたりしていたけれど。

この年、父は娘の誕生日を失念し、母はホスピスで眠り続け、

私は自分の生まれた日を、喜べる心境に無かった。

 

この頃の母は、強力な鎮痛剤で眠りに落ちて尚、

表情から「苦痛」が消えなかった。

ギュッと寄せられた眉間には深いシワが刻まれ、

時折苦し気に掠れた声で「痛ぁい」と呻く。

 

そんな容態にしてあげられる事は、あまりにも少ない。

乾いた口元を、水を含ませたガーゼで湿らせ。

力が入り過ぎて痙攣する眉間を撫ぜ解し、呻く度に手を握り、

時には横たわる母を抱きしめて。

少しでも痛みが和らぎます様に、穏やかに眠れます様にと、

ひたすら祈る事しか出来なかった。

 

8月下旬、癌の進行による骨折が発見された、右脚の向こう脛。

9月に入る頃には、傍目にもわかるほどの、凹みが生じていた。

脚を動かさない様に気を付けながら、そっと触れれば。

右脚全体が燃え上がる様に熱く、

凹んだ部分は奇妙な柔らかさがあった。

癌に蝕まれた骨が、更なる崩壊を起こし続けていたのだろう。

 

 

38回目の誕生日、家業打ち合せを終えた足で、ホスピスへ向かった。

病室には、山歩きと渓流釣りが好きな母にと用意した、

自然音のBGMが静かに流れ、野鳥の囀りやせせらぎの音に少しホッとした。

苦痛の表情で眠り続ける母の傍らに座り、すっかり習慣化した

「眉間マッサージ」を施すと、母の表情がほんの少し和らいだ。

嬉しくなり母の手を握るが、反応は返って来ない。

意識は無くても聴覚は生きている、と看護師さんから教わってから、

《一方通行おしゃべり》をする様にしていた。

 

「今日も暑いよ。ここは涼しくていいね。」

「外での立会いもあったから、暑気に当たっちゃった。」

「今日、私の誕生日だよ。お父さんはすっかり、忘れてるようだけど。

 

応えぬ母へ話している内に、無性に甘えたくなり。

眠る母の胸元へ重みをかけない様、そっと頭を乗せて、胸に耳を寄せた。

ゆっくりと上下する胸からは、確かな鼓動が伝わって来た。

 

「誕生日おめでとうって、言ってくれないの?」

 

問う声が、震えた。 翌年の誕生日にはもう、母は居ない。

見送る日は、すぐそこまで来ている。

あとどれ位、こうして触れていられるのか。

何でこんなにも早く、母親を喪わなければいけないのか。

様々な思いが込み上げ、哀しみと同時に怒りが湧き上がった。

 

 

もうすぐ、母は居なくなる。 後に、遺されるのは。

よろしくない業者と繋がったまま、数十年に渡り惰性運営し続けた事で、

沈没しかけている家業と。

人は良いけれど稚なく、肝硬変持ちでありながら、酒に逃げる父。

心臓疾患その他を抱えている、母方祖母(現在の養母①)。

精神不安定と、長年の入浴拒絶&受診拒絶が有る、母方叔母1(現在の養母②)。

本来、祖母と叔母1の「扶養義務」を持つ、母方叔母2(既婚・近隣住い)は。

鬱病に加えて、祖母と叔母1に背をそむけ、協力体制ゼロ。

 

かなりの日和見主義で面倒くさがりだった、家族全員。

傾きかけの家業にしても、叔母1の精神不安定にしても。

その内何とかなるという、根拠も責任も無い考えで、

足元に火が付いている現実から、何十年も目を背け続けていた事が。

10年ほど離れていた生家へ、母の末期癌ケアで戻り、

家業と家庭内現状を目の当たりにした事で、発覚した。

 

独立し、「外からの眼」で家を見る様になって気付いた、様々な問題。

低迷していた家業や、精神不安定な叔母1の将来など、

一人っ子=後継者として丸投げされるのは困ると、

何度となく訴え続けていた。

両親や祖母へ、先々への不安を相談し、改善策の提案も

数年に渡り行なっていたが。

 

「大丈夫。バトンタッチする前には、どうにかする。」

 

と、軽くいなされ続けた結果。

状況悪化した諸々を否応無しに、バトンタッチされる羽目になっていた。

 

当時90歳間近だった心臓疾患有りの母方祖母にも、

肝硬変が進んでいた父にも、精神不安定な母方叔母1にも。

「家」の要(かなめ)だった母の肩代わりは、到底無理。

バトンタッチ拒否すれば、父と祖母と叔母1を

ケアし養う者は、誰もいなくなる。

家族全員の生活の糧となる家業と、弱り衰え続ける家族3名を、

母から引き継ぐより他に、道は無い。

 

 

とんだ尻拭いだと、改めて思った。

遠くない日に旅立つ母にも、遺される父・母方祖母・母方叔母1にも、

恩と愛情が有るだけに、背を向け放り出す事はしたくないけれど。

あまりにも重い状況を丸投げされる事や、

自分の人生が、根底から激変するだろう事への恐れと不安が、

瞬く間に怒りへと形を変え。腹の底から噴き上がった。

 

苦し気な表情で眠り続ける母が、憎らしく思えた。

長年に渡り、放置し続けた問題の数々を私に押し付け、

逃げるかの様に逝ってしまう母へ、激しい怒りを覚えた。

 

だから、言ったじゃない。

家業にしても叔母ちゃんの事にしても、困り事は山ほど有るんだから。

悠長に構えてたら、私が継いだ時に大問題になるって、

何年も訴え続けて来たじゃない。

その度に、「何とかする」って答えてたけど。

何一つ改善されてないし、それどころか悪化してるじゃない! 

 

抑えきれない怒りのままに、眠る母ヘ手を伸ばした。

痩せて血色の悪い頬を、ペチリ、と軽く叩いた。

ほんの少し、溜飲が下がった瞬間。

 

「なんで、ぶつのよぉ。」

 

母の、掠れきった声が上がった。

ギクリとして見れば、目を閉じたままの母の眦(まなじり)から、

涙が幾つかこぼれ落ちた。

途端、凄まじい罪悪感に見舞われた。

初めて、母をぶった。

軽くとはいえ、怒りに任せてぶって、泣かせた。

 

「ごめんなさい。お母さん、ぶってごめんなさい!」

 

母の頬を撫ぜ、こぼれた涙を拭き、平謝りした。

 

「ごめんなさい。ごめんね、お母さん。ごめんなさい。」

 

母への怒りも憎らしさも、瞬時に吹き飛んだ。

深い後悔と罪悪感が際限なく湧き上がり、ひたすら謝り続ける中で。

ふいに、母の手が動いた。

目は閉ざしたまま、弱々しく手招きする動きを見せた。

驚いてその手を取れば引き寄せられ、私の頭に母の手がポスンと乗り。

力無く数回、頭を撫ぜられた。 

子供の頃、母に叱られ泣きながら謝った時、

赦しと共にしてもらっていた「いい子いい子」。

懐かしい感触を頭へ受けながら、母に赦された事を知った。

 

 

撫ぜる手の動きは、数回で止まったけれど。

後悔の涙が、止まらなかった。

母の赦しと、最後になる「いい子いい子」を、覚えておきたくて。

頭に乗せられた手の暖かさを、少しでも長く感じておきたくて。

母の胸元に頭を寄せ、ごめんなさいを繰り返しながら、じっとしていた。

 

後にも先にも、母の頬をぶったのは、あの時一度だけ。

抑え様も無く噴出した、激しい怒りとやりきれなさ。

際限無く湧き上がった、とてつもない罪悪感や、深い後悔。

母の掠れた声と、頭を撫ぜ赦してくれた手の暖かさ。

それらは、6年が経つ今でも色褪せる事無く、鮮明な記憶として残っている。

 

38歳を迎えた、2011年の9月朔日。

猛省と痛みを伴う、「忘れ得ぬ誕生日」となってしまった。

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